日本球界のおける名キャッチャーであり、名監督といえば、いわずとしれた野村克也監督です。
野村克也監督といえば、試合後のぼやきが有名ですが、実は選手としても偉大な選手だったのです。戦後初の三冠王。しかも世界のプロ野球初の捕手としての三冠王達成。選手としての晩年は昔の南海ホークスで選手権監督としても活躍しました。
現役引退後は、解説者となり、その後ヤクルトスワローズで監督となり日本一となり、その後、当時低迷していた阪神タイガース、東北楽天イーグルスの監督として選手を育て、監督引退後を引き継いだ星野仙一監督がどちらの球団も優勝へと導きました。
当初はテスト生として入団した野球選手がどのようにしてここまで偉大な選手・監督となれたのでしょうか。
今回はそんな野村克也監督の血液型やそこからわかる性格やエピソードなどをご紹介していきたいと思います。
野村克也監督の血液型とプロフィール詳細
生年月日:1935年6月29日
身長:175cm
出身:京都府
最終学歴:京都府立峯山高等学校
血液型:B型
日本球界を代表する名キャッチャーであり、名監督です。
同世代に王貞治さんや長嶋茂雄さんがいて、「長嶋はひまわり、俺は月見草」という言葉は非常に有名です。長嶋さんはひまわりのような華やかな選手だが、自分はひっそりと咲く月見草だと比較しているのですね。
野村監督の血液型はというとB型。
B型と言えば、よく次のような性格だと言われています。
【B型】<一言でいうと『マイペース!』>
・明るくて自由
・人を惹きつける
・無邪気
・ルールや人からの命令が嫌い
・団体行動が嫌い
・つきあうと仲良くなるのは早い
・楽観的、楽天家
・常識にとらわれず発想力が豊か
・好奇心旺盛
・興味のあることに熱中しやすい
・興味のないことには全く無関心
・怒る時は静かに怒る
・周りがやる気がないほどやる気が出る
・ガラスのハート
・変って言われたり、面白いと言われると喜ぶ
・一人の時間を大切にする
・時間にルーズ
・恋愛には刺激を求める
・楽しいデートが好き
・束縛は嫌い
・熱しやすく冷めやすい
・失恋しても早く立ち直る
野村監督らしい血液型と言えますね。
では、実際にB型らしいエピソードを紹介していきます。
B型の性格らしい野村監督のエピソード
エピソード① 常識にとらわれない!新たな必勝パターン
今でこそ、プロ野球における先発投手、中継ぎ投手、抑え投手という分業制が当たりまえとなっていますが、昔は先発投手が最後まで投げ切るのが当たり前で、中継ぎや抑え投手とやりたがる選手はいませんでした。
そのような時代に野村監督は、先発投手としては勝てなかった江夏豊投手に「プロ野球に革命を起こそう」と口説き落とし、リリーフに転向させます。
その結果、このシーズンで江夏投手が大活躍し、リリーフの役割の重要性を日本球界に認識させました。
このように、常識にこだわらずに、柔軟な発想力があったからこそ、達成できたことと言えますね。
エピソード② 興味のあることに熱中できる探求心
ID野球という言葉を聞いたことはありますか?
ID野球とは、ヤクルト時代の野村監督が行っていたImportant Dataの頭文字を取って作られた言葉で、野村監督の代名詞と言っても過言ではないでしょう。
野村監督は選手時代から、相手投手のくせや相手バッターの特徴に対し、研究熱心でした。
自らで調べてデータをまとめ、それを生かして作戦を立てる。
もちろん、監督に就任してからもデータを集めて分析し、それを選手に伝えて理解させる。頭を使った野球を教えたのです。
そんな一見面倒くさそうなことも厭わないのは、野球に対する熱意とあくなき探求心があるからでしょう。
エピソード③ 野村流 選手に対する怒り方
野村監督は声を荒げて怒鳴りつけるということはあまりないと言われています。
野村監督は選手に対し、3つの接し方を決めています
「三流は無視、二流は称賛、一流は批難」
自らうまくなろうとしない、考えることをしない選手のことは無視をし、二流の選手は褒めることで気分よくしてあげる。そして一流の選手には、批難をし発奮させるのです。
ヤクルト時代の古田敦也選手、楽天イーグルスの田中将大選手などがまさにそれにあたります。古田選手は守備が終わってベンチに戻ると監督の前に座り、ずっと配球について批判されていたそうです。
その批判に耐えたからこそ、古田選手も名選手となれたのですね。
できないからと言って怒るのではなく、的確な批判をすることで選手自身に考えさせようとしていたのです。
この指導法も常識に捉われないやり方だと言えますし、怒る時は静かに怒るというB型らしいエピソードとも言えるのではないでしょうか。
野村監督のことが好きになるワンポイント豆知識
野村監督は実はとても苦労人です。
幼いころから実家が貧しく、小学生のころから新聞配達などのアルバイトしていました。そんな野村監督がプロ野球選手になれたものの、シーズン1年目の終わりには戦力外通告を受けてしまいます。
そこを当時の担当者にお願いをして何とか残留。
プロ野球選手として生き残るために、捕手として自分に足りない肩を強化するためのトレーニングを考案し、実践することで、正捕手として活躍することができたのです。
このころから、自分の興味のあることに対する研究心は人一倍熱心だったと言えるでしょう。
まとめ
・野村監督の血液型はB型
・野村監督のB型らしいエピソードとしては、「①常識にとらわれない発想力で革命を起こす」、「②興味のあることに熱中できる探求心」、「③声を荒げず、人に適した怒り方をする」などがあります。
・野村監督の苦労話はたくさんあります。その困難を乗り切るためにも、研究熱心さが必要だったのですね。
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